第6章:ジャッジの否定は「観察眼と見極める眼」を放棄すること
ジャッジを放棄すると"ぼやけた写真"と化す
スピリチュアル界隈にも暗黙の了解のような目標があります。
覚醒や悟りを目指すことがベストであり、真理や叡智に触れること、エゴを滅することなどがあります。
その他にもジャッジに関する目標があります。
・ジャッジからノン・ジャッジへの成長を遂げる
・2元論から非2元論へと意識の進化
この二つの目標は、私自身も同意することができます。
しかし、これまでお伝えしてきたように安易にジャッジを放棄することには大きな代償があります。
〇心の処理ができなくなる
ジャッジを無理にやめるということは無分別になります。ゴミを捨てる時に無分別に捨てれば、ごみ処理施設の焼却炉は故障してしまいます。
これと同じように、取捨選択したり分別しなければ心のごみ処理場は機能しなくなります。心に平穏は訪れず時間をかけて荒れていくことは目に見えています。
無理してジャッジをしないように心がけたことがある人には、いつの間にか自分の心が窮屈になり苦しくなった経験をした人も多いと思います。
ただの我慢だったと気づくかもしれません。
〇ジャッジの放棄は物事がぼやけた写真に見える
苦しくなった原因は、携帯やスマートフォンの画面の解像度が悪く(ぼやけた画面)なったことにあります。
解像度が低いと画面がぼやけていたり、顔が判別できない状態です。
これが無分別にジャッジをやめることになります。
しかし、部分的に解像度を上げることに執着したり、悪いところ(もしくは良いところ)だけしか見ていないという状態は歪んだジャッジです。
つまり、理解できる世界が狭くなり視野狭窄の状態になってしまいます。
あなたに近寄ってくる人は、善良な市民でしょうか?
それとも何かを企んでいる人でしょうか?
ジャッジを超えた本来の
ノンジャッジは全体の解像度を高めることにあると考えます。
より「ありのままに物事を見る」ということを意味します。
盲目的に妄信するのではなく、鮮明に本質を見抜く力が問われます。
そうすることで全体像が本来のありのままの姿として露わに観ることができます。
禅では「頭でものを考えてはいけない」と推奨します。多くの人が座禅のときにイメージするような言葉ではないでしょうか。
しかし、本質的な教えは「ありのままの世界を見る」ということを指しています。